余白とマイムが語る世界観

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ご存知のとおり、落語には細かい小道具や舞台セットはございません。

だけど、観た後、聴いた後には必ず、くっきりと瞼の裏に残る風景がありましょう。

 

ごめんくだせえと暖簾をくぐった新吉が青い顔して座る、掃除の行き届いた店先の板の間、朗らかに応える旦那様があおぐ扇子の風、その奥に、奥様が控える座敷の向こうの、雨上がりの緑眩しいお庭、文机の引き出しにそっと忍ばせた紙入れを撫でる奥様の白い指。

 

語りにぐいぐいと引き込まれるそのうちに、夢か現か迷い込む幻想はまちがいなく私ひとりのただの空想のはずなのに、その場の皆がまったく同じ風景を確かに見たという、そんなことさえ起こるのです。

 

座布団一枚、手拭、扇子。

なんもないから、ぜんぶある。

 

殺風景な空間に、鮮明な風景を描くのに必要なもの。それが溢れんばかりの量の文字情報では決してないということを、みなさまはすでにお気づきです。

むしろ、情報量は礎ほどの量におさえ、想像を膨らませるための「余白」をたっぷりと。

「余白」とは、時間的な「間」でもあり、空間的な「透明だけどそこに確かにある何か」でもあり、表情や声色など最低限に抑えた情報から聴き手が自由に膨らませることができる「自由度」でもあります。

語りの間合いが決して一方的でなく、「うん、それで?」「はぁ!そげんね!」と呼吸で会話できる、空白の時間、それが「間」。聴き手と語り手の呼吸があうことが、身体的な「ぐいぐい」感の正体。

その「ぐいぐい」の加速にのって、耳から入る声があっというまに映像になって眼前に広がっていく。その加速にのせるのに、ほんっとに大切なのは、語り手が発している視覚情報。ひとつひとつの、ほんの小さな所作や仕草が、きっちり、神経が通った芝居をしていることなのです。

話芸とはいえ、人間の五感のなかで視覚に勝る情報力はありません。だからこそ量をごくわずかに抑え、語りのほんの余り、まるで挿絵のような働きでよいのです。

さらにそれは音声情報とは決して同調しなくてもよい。ただし、きれいで、正確で、うまくないといけません。

質屋の旦那と近所のクマはんが今日も碁を打とうと碁盤を囲む。ハイどうぞと渡された、木目鮮やかな碁石入れの丸みとずっしりとした重み、それじゃあ私から、とうちはじめ、パチンと置く指先、碁盤の高さとその位置、煙草盆の形状と置き場所、出されたお茶の場所と湯のみの大きさ、熱さ。焦るほどに変わっていく煙草の吸い方。

話に夢中になるうちに、まったく気にならなくなっている、というよりむしろ、自分の思い描いている映像のなかで、きっちり正確に、パントマイムのはずのその動きが景色を伴って鮮やかに眼前に見えていて、少しのブレもない。

登場人物をどのように演じ分けるかについては、いろいろな方がおいでとは思いますが、そのひとらしい「所作・仕草」をいかに丁寧に、印象深く、ポイントだけで見せるか、がみせどころかと存じます。

ちょっとした目のやりかた、ものの扱い方、嬉しいのに照れくさくてすぐに声を掛けられない顔、育ちのよさそうな指先。

語らない「余白」こそが、なにより彩り豊かに、なにより饒舌に、そのひととなりを語る。

 

なんもないから、ぜんぶある。

 

落語の奥深さが少しずつ見えかけてきた、落語茶屋ソネス一同です。