八つぁんがクマさんを観音様詣りに誘う心持ち

数日後に、私がとても敬愛している方が手術なさるというので
どうか無事に済みますようにというお願いもあって
今日が今年明けて初めてのとても縁起のいい日だというので
早起きして出勤前に詣でてみようと思っています。

その、私がとても敬愛している方というのは
きっと神社への祈願など望まれないタイプの方だとは思います。
その方がそれを望まないというのは、
よく言われているような、日本人は宗教を持たないとか、
信じる信じないとか、そういうこととは違います。
その方は、神様、というか、見えざるもの、というか、
そういう何かをおろそかにしている方ではありません。
その点でいえば、それらに対してとても礼儀正しく、配慮され、
天の意を汲み、感応し、受け止め、
誰より実直に行動されているように私は感じます。
つまり今回の件も「なるようになるでしょう」と思っておられると思うので、
ご祈願を望んでおられないのではないかと考える次第です。
なので、明日のお詣りにおいては、私の願いとして
「どうか無事に済みますように」というお願いはありますけれども
その方の意を汲んで「なるようになりますもんね」ってそれは祈願?
天の意に共鳴させていただく感じ? で、いいのかな、どうなのかな。
と、悩みながら書いております。

江戸落語「粗忽長屋」では、
八つぁんは長屋で隣のクマさんに「浅草の観音様にお詣りに行こう」と誘います。
八つぁん、よっぽど信心深い人だったのでしょうか?
江戸の時分では誰もが信心深かったから観音信仰が盛んだったのでしょうか?
いえ、そこまで深い信仰心ではなさそうだと思いませんか?
こういうきっと縁起のいい休日の朝で、きっと天気もよかったのでしょう。
現代でも浅草は平日でもお祭りかな?ってくらい賑わってて
浅草寺では、観音様そっちのけで、仲見世を巡ってお買物したり、
映える着物姿で写真をとったり、カフェやレストランで美味しいものを食べたり。
また、本堂を中心にたくさんのお堂がありがたそうな感じで建っていて
それぞれの由来や縁起が、とても興味深いストーリーを持っていて
本当によくできたテーマパークだと思います。私も大好きです。

そのうえ、遊びに行くわけじゃない「お詣りに行く」んですから、
お出掛けの種類としてはとても立派で「良いこと」なのです。
当時はお伊勢詣でなどが流行しており、
参拝に出かけることはとても「良いこと」で
誰もそれを咎めてはいけないというルールは今もうっすら残っていますね。
つまり浅草の観音さんにお詣りに行く、というのは、
ブラブラと遊ぶのとは気分が違う、罪悪感がない「良い」お出掛けだったのでしょう。

だけど、そこに全く「信仰心」がないかというと、
多分、そこはかとなく、隅っこのどこかに、それなりに、あったとは思います。
ただ、あまりに暮らしの中に溶け込みすぎて、無意識で、自覚できないくらい。
現代の私たちにも、それは多少なりとも言えることかもしれません。
浅草寺本堂では、八つぁんなりに、観音様に手を合わせる時は神妙な心持ちとなり、
きっとお香の煙もたっぷり浴びて、摂社末社も隅々まで駆け回って手を合わせ、
当時は神仏習合の頃ですから神様だから仏様だからと区別することなく
何かと「ありがてぇ」「こいつぁ縁起がいい」と感じ、手を合わせる「習慣」、
何かと縁起を担ぎ、博打に天を感じ、小さな「おしるし」にも喜んだり落胆したり。
きっと「信仰心」より手前、暮らしの中、自分の心の心棒の根っこ。

私も、何かを願う前に、私にすでに授かっている「私の心棒の根っこ」を
大事に紐解き、磨いたほうがいいみたいです。

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