私はそれを「進化」と呼びたいと思います

天神のバス停で、建設中のビルの谷間を見上げたら
見慣れた街路樹が、空と私のあいだに
星のようにひらいた若葉と新芽を伸ばして
春の始まりのような夜風に揺られて
笑いながら私を見下ろしていて
こうしてこの樹を見上げた夜がきっと幾夜も幾夜もあったな、と
変わりゆく天神の景色を不思議な心持ちで眺めます。

この樹に出会った頃は、学生だったり駆け出しだったり、
まだ何ものにも成り得ていないながら、何かに成り得るつもりでいて
怖いもの知らずのくせに怖がってばかりで
右も左も可能性だらけの交差点にいるような気持ちでした。
落語茶屋ソネスが始まって15年くらい、
前身の、テアトルソネスから数えると25年くらい、
メンバーを取り巻く環境も、人生も、たくさん変わりました。
伴侶を持ったり、子供を産んだり、親を失ったり、肩書きを持ったり、
失恋や挫折や失敗を経験したり、勉強したり、収入を得るようになったり。

メンバーにも家庭を持ち、子を授かった者が幾人もおります。
小さな小さな体が、少しずつ重みを持って、力がついて、
首が座ったよ、立ったよ、歩いたよ、ママって呼んだよ、
おつかいができたよ、自転車に乗れるようになったよ、
ひとつひとつの成長に、目尻を下げて手を叩いて喜ぶ大人がいます。

自分もそうして、何かができるようになるたびに
周囲の大人を喜ばせて、それを喜びとして感じ、大きく成りました。

今、人生をきっと折り返すあたりでしょうか。
少しずつ「できないこと」が増えました。

信号が点滅しても急に全力疾走はもうできません。
カラオケで徹夜で騒いで朝帰りする体力はありません。
鴻上尚史の群唱を元演出通りにこなせる気がしません。
飲み放題や食べ放題で元をとれる気がしません。
ピンチを乗り越える瞬発力と勢いに自信がありません。
目新しいアイドルや芸人さんの名前がちゃんと覚えられません。
台本覚えが遅くなった上に小さい字が見えづらくなってきました。

人はそれを「老い」と呼ぶのでしょうが、
「できなくなったこと」は「悲しむべきこと」でしょうか。
幼い頃「できるようになった」ことを喜び、喜んでもらった経験に
惑わされていないでしょうか。
人生の歩みを進める時に起こる変化ですもの、
それは幼い頃、若い頃に呼んでいた「成長」と何ら変わりません。
「できなくなった」のではなく
「しなくて良くなった」「違う工夫で乗り越えるべき年齢になった」
そう考え、私はそれを「進化」と呼びたいと思います。

若い頃と同じようにピンチを瞬発力と勢いで乗り越えずとも
未然に防ぐことができる十分な知識と経験と判断力があり、
カラオケでオールしなくても帰りのタクシー代を持っているのです。

未熟ながら溌剌としていた若い頃を懐かしむのは良しとしましょう。
しかし、自分がすでにそのステージを卒業したことを自覚しましょう。
人生の最終地点は「死」であることは明白です。
「老い」や「死」を現実のものとして実感した時、
悲しむべきことではないという境地を、少しずつ手に入れる準備をしたいと思います。

駆け出しだったあの頃は、今の自分くらいの年齢の人がとても大人に見えました。
分別があって、暮らしに余裕があって、渋くて落ち着いていて謙虚で。
人は歳をとれば誰でも「渋み」が出るものでしょうか。
あの頃憧れた、渋い大人の俳優や落語家さんのように、
私たちは落語や舞台や日常において、味わいある渋い存在として開花できるでしょうか。
その種明かしがわかる年頃になりました。
それは、すなわち「これまでどう生きてきたか」。

大好きなリリー・フランキーさんの言葉にこうあります。
“人は歳とったぐらいで成長なんてしません。
おっさんが落ち着いて見えるのは元気がないからです”

目線ひとつ、皺ひとつ、指先ひとつに、それが立ち現れる。
いっそう、日々を丁寧に、味わい、暮らしていきたいと思います。

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