演じないこと、自分のことばで紡ぐこと

こんばんは。

遅ればせながら、過日は卯月の会にたくさんのお運びを賜り、
ほんとうにありがとうございました。

 

古典落語を博多弁になおしてお届けする試みの第二弾として
上演いたしました「道灌 めんたい味」
そして名作絵本を落語のかたちを借りて語り聴かせる三作目として
初めてお目にかけました「すてきな3にぐみ」

 

いずれもおかげさまでたくさんの課題を頂戴しながらも
ひとつひとつ、確かな何かをお客様とともに積み重ねてゆける幸せを
かみしめさせていただいております。

 

初めてソネス芝居「テアトルソネス」の番外として
「役者だけど、落語に挑戦してみたい」と始めてから、はや5年。
いわゆる笑点とか飛行機の中とかyoutubeとかで聞きかじったアレを
自分たちも見よう見まねでやってみるという段階から、

「そもそも落語ってどういうものなんだろう」

「どうおはなししたらおもしろくなるだろう」

討論したり手探りで考えたり体当たりして5年、

ついには当初ソネス芝居で最も大切にしてきた、
「熱が伝わる『間』と『距離感』」「奇跡のような一体感」
を追究することへ、一周して還ってきたように感じます。

 

幸せなことに、福岡では今、江戸や上方の落語家さんによる
落語会が月にいくつも開催されています。
(その情報もできるだけココでもお知らせしていきたいと思っています)
じゃあ、江戸でも上方でもない、何なら落語家でもない私たちが
ココでこうして毎月毎月、お客様に楽しみにしていただける、
私たちにしかできないものって、何だろう?

 

落語のはじまりは、喋りのうまいお坊さんの説法だったといいます。
またはいわゆる「スベらない話」のような鉄板の笑い話を
喋りのうまいおじさんに、みんなが暇つぶしに「アノ話してよ」というふうに
喋ってるのを聞かせるのが「技」となり、名人が現れ、
メジャー化していったものだと思われます。

 

落語を稽古するときに最も肝要になるのが「リズム/テンポ」と「間」
いわゆる「落語」といって思い浮かべるのは、やはりあの江戸落語の
軽快で立て板に水のような喋り口と、うまい「間」
ソネス落語メンバーも当初はいわゆる「アレ」がやってみたくて、
念仏のように唱えて覚えて、立て板に水のようにやってみていました。

 

だけど、なんだか、伝わらない。「間」が決まらない。

 

取ってつけたことを「演じて」も、所詮ただの「一人芝居」
落語はそうじゃない。コミュニケーションしてナンボなのです。
それぞれの個性に合わせて、さまざまな稽古手段で「伝える」ことへの
格闘が始まりました。

 

方言にもさまざまなテンポやリズムがあるように、
「間」には、絶対的なイイ「間」と
ある限定的な関係性において通用するネイティブな「間」があります。
この福岡には、福岡独自の方言と、リズムと「間」があり、
日頃親しんでいる言葉独特の言い回しや間じゃないと!ってことは多々ありますよね。
博多弁落語は極端な挑戦ではございましたが、博多華丸•大吉へのオマージュとして
借り物ではない自分の中から出た言葉と間で語り、
江戸落語でも上方落語でもない、「ソネス落語」を確立したい。
そしていつもお客様と、演じずに、まっすぐ向き合っていたい。

 

江戸落語や上方落語の本物の落語家さん方の会とは違った、
あったかく、心の距離も近い寄席でありたいと思います。
今後ともどうかご贔屓のほどよろしくお願いいたします。

 

席亭 クロキカオリ

PS 卯月の会 フォトギャラリーに追加されましたよ。

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